日本の閉塞感が待ち望んでいた敵としてゴジラを生み出したのでは
まだまだシンゴジラ盛り上がってる。いろいろとヒットした要因みたいなものがネット上では議論されているけど、僕は個人的に「日本の閉塞感」をもろに痛感する今だからこそ、面白いと感じる映画だったんじゃないかと思っている。
例えばこれがバブルの時代に公開されていたら違った見え方だろうし、今後もしも時代が変わってから見てもちょっと違う。今だからこそ共感、いや共感というか、潜在意識に訴えるな何か、があったような気がする。
作中で、スクラップアンドビルドという言葉が出てくる。が、今の日本にはどちらもない。日本というか東京というべきが正しいかもしれない。
何も変わらないし、変わりそうにない東京。
株価や為替が上下するけど、人びとの生活は変わらない。実際にはジリジリと悪くはなってるけど、ジリジリだから圧倒的に何かが失われるほど悪くはない。これまでの価値観の延長線上で、やんわりと悪くなっているだけ。
誰もがきっと持っているガラガラポン願望
たまにネット上で過激な人が「もう戦争を起こすしかない」と言ったりする。僕は右でも左でもないけど、わからなくはない。
これはどこかの国を侵略したいとか、敵対したいとかいう意味ではなく、ただ閉塞しつづける日本を変えたいという意味だと。相手はどこでもいい。ただただそういう行為を通して、日本をスクラップしたいってことじゃないかと。
つまりは、ガラガラポン。
今の世の中をリセットしたい。革命のような過激なものでもない。僕のように右でも左でもない人でも、そう思う人は少なくない気がする。
もしも日本という国を作るゲームだったとして、リセットボタンが押せるのならどうするか。僕は押してしまうだろう。
でも、それができないからどこかと戦争するという考えが生まれる。ただ、それは許されないし、絶対に許してはいけない。
だから、待ち望んでいた敵としてゴジラは現れる。
街を破壊するゴジラを、今は心のどこかで少しだけ現れて欲しいという願望がきっとある。もちろんそんなことはあってはならないけど。
政治も経済も東京に一極集中する日本にとって、スクラップするべきは東京であり、ゴジラが東京に現れたのは、僕らのガラガラポン願望の現れかもしれない。
戦争でもゴジラでもなく、スクラップアンドビルドには?
ただ、もちろんシンゴジラは虚構であって、本当に現れることはない。実際にはスクラップもビルドもできず、これからも東京、そして日本は閉塞感に包まれたまま続いていく。
戦争でも震災でもゴジラでもなく、日本をスクラップアンドビルドする方法ははたして何なのか?
坂本龍馬がかつて「今一度日本を洗濯致し候」と言った。そんなヒーローが現れるのか。それとも僕ら一人一人がそういう道を何らかの方法で切り拓かなくてはいけないのか。
シンゴジラを観て、僕はそんなことを考えている。