長谷川豊氏の一連の騒動で思ったこと。
担当番組を降板になり、本人が謝罪もして、なんとなく「これにて一件落着!」みたいになってるけど、本当にこれでいいのか。
多くの人にとっては、今回の騒動は単なるエンターテイメントだったんじゃないのか?
彼が番組降板、謝罪へと向かう流れはただの「水戸黄門」だったと感じた。
勧善懲悪。
特にこの「懲悪」の部分、悪を懲らしめたいという欲求は誰にだってある。
悪代官が出てきて、貧しい親子から年貢を取り立て、さらに難癖をつけて美しい娘まで奪おうとする。
誰の目から見ても「悪」
けれど、最終的には黄門さまたちにボコボコにされて、めでたしめでたし。
この「悪」という存在が今、日本には足りていない
正義の国アメリカでは、ヒーローが必要で、そのために悪が存在がする。
でも、きっと日本には悪が必要で、そのために黄門様のような人が存在する。
別に水戸黄門である必要はなくて、わかりやすいカタチで悪代官が懲らしめられることが重要。
懲らしめる側なんてどうでもいい。遠山の金さんでも、銭形平次でも、誰だって一緒だ。
権威がある人に怒られたほうがより悪が際立つだけ。別に雷に打たれたり、肥溜めに落ちたり、東京地検に家宅捜査されたり、懲らしめられ方はなんだっていい。
私たちが見たいのは、あくまで悪代官が懲らしめられる姿であって、ヒーローではない。
わかりやすい「悪」を叩くことが、おとなしい日本人にとっての快感なのだ。
大学を辞めて起業家になろうとする若者だって同じ。
http://www.ikedahayato.com/20161006/66267194.htmlいろいろと意見はあるだろうけど、何も考えずに起業しようとする姿は「わかりやすいバカ」であり、つまりは「悪」だ。
悪は懲らしめられるべきだし、それを痛快に思う気持ちもわかる。
問題なのはそれがエンターテイメントではなく、生身の人間ということ
長谷川氏も大学を辞めて起業家になる若者も、自らが「悪」だとはおもっていないだろうし、多くの人がそう思っているだけで、本当は「悪」ではないかもしれない。
彼らを「悪代官」として、叩くことがはたして正しいのだろうか。
だからこそ今、「水戸黄門」のようなエンターテイメントが必要だと思う。
わかりやすい「悪」が出てくる、わかりやすい物語。
最近のドラマはリアリティを追求しすぎて、「悪」側の苦悩や葛藤を描きすぎている。悪は悪でいい。そして、コテンパンにやられればいい。
エンターテイメントだからこそ、それができるし、エンターテイメントになら、それを求めていいと思う。